あとがき
私は一年程前から、以前とは異質な生徒の性行に戸惑いながら、それは体調や高年齢という私個人に起因する要因を滅入った気持ちで模索していた。しかし、思い当たる点があったとはいえ、それだけでは納得のいかないまま曖昧な気持ちで逡巡していた。授業やクラブ活動でも、放課後の時の流れのなかでも、個人差はあったけれど、過去の生徒たちのとの感触の違いは否定できなかった。私と生徒たちとの間には、明らかに不連続な距離の懸隔があった。それを解明できなかったのは古きよき時代に対する郷愁があったからだと思う。私は現状の狭い閉鎖社会にすっかり浸かりこんで、外を見て考えようともしなかったが、相次いだ少年の殺人・傷害・暴行・自殺事件、不登校や保健室登校の報道に接するうちに退嬰的な私の視点が変わり、到達した結論が「少子化」であった。現象的には教育の混乱は急激に少年人口が変化するときに顕在化する。八十年代の荒れは戦後の団塊の世代と呼ばれた人たちが親となって子供たちの数が増加したからであり、今回は減少期にその特性がある。その点を検証するのが目的であったが、仕事の都合もあって、約一ヶ月で書き上げたために、いま読み直してみると、推敲の不十分な点、論旨の未精製や論理の連続性のまずさに慚愧の極みである。特に、気にかかるのは、詰めの甘さである。
現在の教育混乱や荒廃と言われる現象の本源的原因は明らかに少子化であるが、何度も触れたように、教育は構造的に保守的なもので、社会や家庭の変化に追随するものであるから、社会がどう変化したのか究明し解析しなければ本当の解明とはいえない。つまり、少子化がいま何故、日本で進行しているかである。各家庭の側からすれば、子供には手が掛かるし、教育費は高い。部屋も狭い。何より家計のため、あるいは、自己実現のため女性の職業進出が進んで、以前のような専業主婦は減少している。欧米先進国での子供の数は少ないのだから、経済大国の日本に起こってもなんら不思議な事ではないかもしれない。生活の豊かさを求めれば当然の事であろうから、夫婦とも価値観が変わってきたからだと言うことになるだろう。しかし、もともとは個別的・主観的である価値観が、共通な客観的状況を作り出していることのマクロな要因を考えてみる必要があるのではないだろうか。つまり、世界における日本の動向に注目するとその実像が見えて来るのではないだろうか。
現代の世界は急激に国際化が進んでいる。まず、コンピユーター、特にインターネットの発展による情報のボーダレス化は日進月歩である。今、山のなかで一人で暮らしていても、電気とコンピューターと電話回線かアンテナさへあれば毎日の新聞はもちろん、アメリカの図書館の資料を手に入れることはたやすいことである。情報をになう電磁波には国境の壁は、サッカーのゴールネットを抜けるゴルフボールよりもっと隙間だらけだ。しかも人工衛星によるネットワークは全世界に広がっている。高い壁を造り、軍隊で国境を固めても、極秘情報ならともかく、今や一般の情報拡散を阻止することはできない。当然、物流にも文化交流にも大きな影響を与えている。
原始の時代は物々交換であった。やがて人類の社会的進歩による多様化の時代になると、例えば食料と道具のように異質の物を、需要と供給のバランスにもとずく生活感覚の価値観で結びつけた。それが通貨の出現であった。当初、通貨は物の行き来に伴う間接的な陰のようなものであったが、貨幣経済の広がり、更に為替の汎用化が進むと、一枚の紙切れがコンピユーターの記憶素子のように膨大な実体を支配する血流になった。もちろんその背景には信用がついて回るから、この情報機関の進歩と解放が、国際交流の進展が進む種々の分野のなかで、直接的には金融界に象徴的変革をもたらした。金融界では情報操作が莫大な富の移譲をもたらす。金融界は情勢分析に極めてナイーブである。情報が全てといってもよい。こういう時代の行き着く先は当然相互の垣根を越えた交流であり、規制緩和である。この世界的趨勢のなかで金融ビックバーンは進行された。日本国内だけの護送船団方式による金融秩序はもはや機能しない。それは銀行を中心とした企業の経営体質の変革をも求めるもので、現在の大手銀行の破綻と系列企業の危機も、ユーロの統合と同質であって、新しい体制に移行する過渡期の模索と産みの苦しみと言えるのではないかと思う。そしてそれは連鎖反応を起こしながら全ての分野に広がっていくだろう。
政治の分野でも税制をめぐって大きく揺れている。こういう時代である以上、国際基準に合わせて、法人税、所得税の税率の上限と下限を修正し、消費税の導入による直間比率の是正は避けては通れない。たしかに、税制改革は政権党に不利であるとはいえ、消費税に示す国民の拒否反応は先進国のなかでは異常に激しく、政権の根幹を揺さぶっている。この抜本的解明とその対策が求められているのではないだろうか。
海外旅行の経験の乏しい人が、まず心得のとして承知しなければならないことは、ホテルの枕銭とかレストラン、タクシーなどサービスに対するチップである。
日本でも旅館の宿泊では珍しいことではないが、それは大盤振舞の延長線のような心付けであって、正当な料金を払っているのだから、チップがなくても受ける方にも特別な不都合はない。最近の不況で、サービス料として組み込んでいたものを放出しているところも少なくない。しかし、西欧の社会ではいろいろな分野に亘って慣習化してはいる。日本の旅行者はそれを旅行という特殊な消費対応のもとで、旅行という一時的な生活の様式と割り切っている。それは自分の日常生活とは別のものだと思っている。それは西欧社会では、個人の生活動向が独立していて、一つの行為がそこだけの出来事として個別的に処理され、他に関連をもつことが少ないからだろう。個としての自覚が粘着質な甘えの構造を容認しないからである。それに対して過密で「絡み合い」の日本の地域社会は、権力や恩典の移譲は他段階的な縦割りであるのに対して、日常的には地縁・血縁・職縁を媒介としてお互いに監視しあっているから、各自の行為は会見互いの横並びであって、特別にサービス料を払うことには馴染まない。気候異変で百円の野菜が二百円になっても値上がりは容認できるが、そこに十円でも税金となると強奪感が湧いてくる。正札の金額を払ったのに更に消費税を請求されると、ばつわるさもあってか苛立ちを感ずる。まして当初は益税などという言葉もあった。
このあたりの心理状況は、人に奢ってもらったときの挨拶に現れる。「ありがとう」と「すみません」である。何も悪いことをしていないのに「すみません」と言うのは、卑屈で陰気な感じで、近代的な人間関係を損なうと言われるが、次の機会に奢り返してくれたり、何か返礼をしてくれるのは「すみません」の方である。少々飛躍的ではあるが、この謝罪の言葉が感謝の意味で使われる人間関係に消費税の入りにくい心理基盤があるのではないだろうか。物質の交流が進んでも生活習慣として長い間に定着した心情は変わらないからである。
しかし、この国民の不評にもかかわらず、間接税の比率を上げていかなければならないことは、いまや時の流れである。それはプライバシーの保護と情報公開の保障につながる個としての自立を意味する。
つまり、「情報化による国際交流の進展は、グローバルな視点にたてば、ヘッジ機能を含めて富の平均化に行き着く。」
世界各国の富の平均化は故国の風土への愛着や歴史、文化の違いによって画一的な統一基準は困難ではあるが、長いスパンで見れば着実に進展していくであろう。現在がその過程にあることを前提に置くと全ての現象が説明される。
わが国は農業、林業、漁業等の一次産品は国際化の波のもとでは競争に耐えられない。かって木工の町清水には輸入の外国材を加工する製材所が多くあったが、原木の輸出国が日本の家屋の材料に適した加工をして、付加価値を上げて輸出してくるために工場を閉鎖せざるを得なかった。同様に、鳥肉のような食品もアルミニュームに象徴される金属もかっては原材料の輸入であったものが、現在では加工品になってきている。北洋の蟹をはじめとする魚介類も海上でロシア漁船から買い取ってくる。自動車をはじめ工業製品も、現地の部品調達を余儀なくされている。知的所有権は経常赤字である。それらは技術・知識の共有とともに平均化の兆候を示している。日本国の国民総生産・国民所得の世界的に高いといっても、建築費の膨大な幹線道路はすべて有料であり、過密による高額の地価をはじめ出口の見いだせない産業廃棄物問題のように公害や環境問題の処理のために多額の出費が避けられない現実は実質的貧困の要素を内包している。
以前「国富みて民貧し」、「金満症にっぽん」という本があったが、国際金融資産の大きさの割には国民は富裕感に乏しい。
これら全ての分野における平均化の帰結する究極のところが、超過密なわが国においては人口抑制の趨勢になっているのであろう。端的に言えば、個人事情と思われる少子化は、その真の実体が国際的平均化であり、教育問題をはじめ政治経済の混乱は新体制への移行期における再編成の過程だと思っている。
この激動する政治経済を平穏に乗り切るためには、利益誘導型の政治と決別し国民の変革と支持の得られる理念の政治が求められなければならないと思う。その営みのなかに教育も含まれるのであろう。この点の展望に甘さがあったことが痛感され心残りである。
1998.12.15