はじめに
今回、「キレる中学生」という本を書きました。今年の2月、3月期に連続して発生した中学生の非行、特に殺人、暴行事件が頻発しマスコミに連日報道されました。もちろん私も現職の教員として関心がありましたが、私の学園は創立以来100年の伝統をもつ女子だけの大学付属校ですから、暴行事件などは無縁でした。それは80年代の教育の荒廃が問題になったときと同様で、まったく他山の出来事として関心を払う必用を感じませんでした。学園内部にも危機感とか不安は皆無といっていいくらいでした。
私も当初は、報道されるている事件は自分の生徒たちとは異質な何かの原因によるのだろうと思っていました。そして、私は過去の経験からやがて沈静化していくだろうと冷めた気持ちでした。
しかし、新聞、テレビの報道を見ているうちに世の中一般の取組に大きな誤謬を感じはじめました。それは、私の知る限り、どの主張や見解も、既成概念に基付いた価値観や教育感、あるいは固定的な人間感を前提にして述べられていることでした。
特に高齢の、しかも著名な教育者にはこの傾向は顕著でした。
その頃、私は軽い脳梗塞の後遺症で授業に多少円滑を欠いていました。言葉がいくぶん聞き取りにくかったり、黒板の文字も迫力を欠いたりで、健康に恵まれていたときなら何でもなくかわしてしまう些細な事柄も多少ぎすぎすすることがありました。もちろん過去にも、体調を崩して行き違った事はありましたが、そのときの生徒の反応の違いを肌で感じていました。以前より異質なだけでなく攻撃的な要素を強く意識しました。それも特殊なクラスの、特異な私の問題だと思っていましたが、何人かの教員の体験を聞いているうちに私だけではない何かの事情を認識するようになりました。
従来なら、授業にしてもクラブ活動にしても、手前味噌になりますが、割合恵まれていた自分の健康と能力で私のペースに巻き込んで進行していましたから、健康なときには見えていなかった生徒たちの変質を明確に自覚したのです。
以前は特別気にも止めなかった長欠者の事や、そう言えば、わが校にも保険室登校の生徒もいるのだということも、この生徒の傾向のなかに理解されてきました。
つまり、殺人傷害の事件がショッキングな現象と報道されているが、実は、最近どうにか市民権を認められつつある不登校と同一であることが実感されました。実際にそういう生徒やわが子をもつ教師や親からすればずいぶんとテンポがずれた認識をしていたことになります。
さらに、そう言えば、時折聞こえていた「登校拒否」と言っていた言葉がいつのまにか「不登校」と言う言葉に変わっている。当事者たちの間で理解が進むうちに、学校に行かないのは「拒否」しているのではない。世間の常識からすれば怠けているとしか思えないけれど、「行けない」のだと言うことが事が理解され、生活指導や道義的な見地でなく病理現象として治療を要する保護の立場から「不登校」という表現に変わったのだ理解するようになりました。
この不登校については多くの臨床的な著書が精神医療の専門家たちから出されているようですから、これ以上は別の機会に譲りたいと思います。
私は教育問題に関するマスコミの報道をいろいろ調べて見ました。その原因は前に述べたように、少年のストレスによるもので、そのストレスを生むものとして、生きる目標の喪失、大人社会の退廃、受験競争や母親の不在など家庭崩壊による情緒の不安定といった環境変化に力点を置いたものでした。大げさな言い方だと思われるかもしれませんが、どの主張も、今回の本質が教育史上経験のない教育問題であるにも拘わず、変化する現場を知らない人たちの旧弊な教育感にもと付いた主張であって、なんらの回答になっていないと感じました。
社会が激しく変化しているときに、そのなかで生まれ育っていく子供たちの精神構造と言うか、パーソナリテイーと言うのが適当なのか分かりませんがそういったものの変質を検証していないのが致命的だと思いました。
原因の究明なくして対策はありえない筈です。また、対策は、過去もそうであったように、直面した人たちが各々の知恵を働かせて何とか収拾していけるものです。国家の思想信条に関することでも、誰でもがそれなりに対処してきました。まして、生活習慣に関する個人の問題ですから、特殊な例外を除けば対応の処方箋は見つかると思っています。
むしろ、大切な事は、社会の変質がもたらす生き物としての人間の構造変化だと言えるのではないでしょうか。
しがって、今回はその原因の究明に力点を置いて書いたので、原因などよりも今現実に起こっている混乱にどう対処するかが語ってなければ意味がないという方には、ワンクッション置いて欲しいのです。
具体案を示してないとなーんだの言って横を向かれる方はちょっと待ってください。大まかな一般論はあっても、具体案は個別的なものですから、ケースバイケースで対処すべきものだと思います。つまり、教育に特効薬はないのです。
むしろ、特効薬があったらそれはこの上なく危険な事です。特効薬は逆の目的でも使えるからです。
効果的な教育業務に携わる人には、つねに、能力と意欲と忍耐が要求されます。教育現場で起こる問題はその事件を関係者の間だけの限られたシステムのなかで考えると、すべてその担当者(つまり教師)の資質に行き着く事になります。
例えば、黒磯の中学で起こった教師の殺人事件でも、あのとき生徒を廊下のように他の生徒のみえるところで説諭しなければナイフで刺すまでにはならなかったのではないかと言う判断があります。あるいはもっと時間をかけて教師集団のなかで対処すべきであったとも言います。この限りにおいては教師の指導の誤りと言うことになってしまいます。しかし、同じ事態に直面したときにも、その人その人ごとに個性にあった指導方法があります。それを他人が自分の処置法を論ずることには無理があります。あの先生は教師としての見識のもとで教育効果がもっとも上がると信じていたのでしょう。おそらく他の場合にはその教師と生徒との対決のなかで有効な実績をもっているのでしょう。
つまり、別の教員とか別の手法をとれば事件は別の展開になり、別の結果になって 、結局は、その場における教師の結果責任に帰結してしまうのです。あの事件の場合は予期しない結果になったのが不幸だったというしかないのです。
しかし、私の言いたいことは、あの事件ははみ出た少年の単なる粗暴犯として片付けるのではなく、あの先生と生徒と学校と地域社会とさらにそれを包んでいる社会の中に、単に「不幸」であったということだけでかたずけられない要因が存るはずです。
教育問題は単なる技術教育や社員教育のように限られた特定の目的と限定された対象ならばともかく、次の世代を担う人物の人間教育には、常に原因と結果との対比が必要です。その上で、どうあるべきかの目標を設定するのが順序です。
私は今の教育の底を動いている潮の流れを検証して見たかったのです。そのためには、社会構造の現状と変質の実態を解明することは不可欠です。
それが今回の著書の目的で個人個人の処方箋は次回に回したいと思っておりますので、御理解ください。
要するに、教育に限らず、現在の政治・経済・福祉等のすべての分野に亘って混乱を招いている日本の諸問題の解決策を考えるには、現在、日本の社会が歴史上初めて経験する「社会体質の変化」が原因だという認識が不可欠です。しかし、ほとんどの場合、すべての論理の前提となるべきこの原因に対する認識が欠如していることによって、それぞれの主張が、単独では、それ自体では筋目の通っているのに、多くの議論が噛み合わずにお互いを腐蝕してしまうのです。討論の後は何時も空しい気持ちになります。テレビ討論ではいつもそんな感想を持ちます。大変残念な事だと思います。
昨年の神戸に起こった小学生の傷害殺人事件をはじめ、黒磯北中の事件のように今年の初頭に連続した殺人傷害事件、あるいは近年やっと市民権を獲得したと言ってもいい不登校の問題も、いろいろな立場の意見が対立する背景にはこの社会変質の分析 ,解明に対する共通の確認がないからだと思います。
まして教育のように多面的な問題を別々の視点で見ようとするのですから統一する結論に達するはずはないのです。たまたま結論だけが一致した場合などは、何か不安を感じます。
それは丁度、犯罪事件でその事件の経緯を詳しく説明されても、その事件の動機が解明されないと何か釈然とした気持ちになれないのと同じです。 と言うより次の判決も対策も見つけられないことになります。
経済の分野で言えば、近年の不況は大変もので企業内のリストラは勿論、企業の倒産件数も負債額も戦後最大ですし、失業率も4.3パーセント、求人有功倍率も0.5を割っていますし、その中でも中高年の場合は0.2パーセント程度で条件も極めて厳しいものです。過労死自殺も増えています。
この不況に対す対策は現在の政治の最大課題です。不況対策としては、従来から金利の低下、公共事業と相場が決まっていましたが、どの政策も行き着くところの消費マインドの冷え込みをおさえデフレスパイナルからの脱出には効果が期待できない現状です。
そこで、直接効果を求めて重点的に取り組まれているテーマが税制改革です。6兆円ともいわれる金額を後の世代に借金をして減税をする、24兆円ともなる金融対策費をつぎ込む、つまり赤字国債を発行して、景気浮揚を計ろうとしています。しかし、現在の税制の改革で、直間比率や税率の見直しは国際規模に合わせて行う必要があることは事実でしょうが、減税だけが先行して国民のもとに多くのお金を還元して消費を刺激することの効果は、焼け石に水で効果があっても一時的なものだと思っています。何しろ消費マインドが冷えているのですから。
例えば、景気回復のために消費税の一時廃止や税率の低下が専門家の間で議論されています。しかし、この点には経済企画庁もいろいろなシュミレイションをしているようですが、消費税を今後永久に廃止してしまうならともかく、その判断は今後の動向たいしてますます重要な位置付けになるます。下がるまでの買い控えや下がった後の反動やらでむしろ混乱が増してくると言うのが結論のようです。それにその変化に対する事務処理にかかる費用や負担は大変なものになります。
実際問題として今回の税制改革は、一番減税の必要のある、年収800万円までの層は増税になる、これは景気対策に逆行すると反発を強めている人たちもいます。それに対して政府は作年度の4兆円に及ぶ一時的な一律減税のために底値が上がっているからで、通年で見れば恒久減税だと釈明に腐心しています。たった1年のスパンで見てもこの対立が現存します。
しかも問題なのはその財源を赤字国際に依存するということです。
現在の日本のGDBは500兆円ですが、国財政赤字は560兆円です。この異常事態にに対する危機感を何処かに棚上げして今の危機を脱しようと将来につけをまわしているのです。
「奇策」とか「愚策」という多数の専門家の判断をよそに、公明党との政治駆け引きとして実施された商品券の配布は、その規模が4兆円から7千億円に減額されたがその事務経費に1千億円を要し、各自治体は実施に向けて大変な事務負担を強いられたのはよく知られています。
しかし、この問題の最も重要な点は、赤字国債で賄うのですから、配布された青少年家庭の青少年は、今必ずしも必要としているとは限らない人でも、いずれ大人になったときに自分たちで支払わなければならないのですから、将来の資金を債務として、無理に消費を強要されたことになるでしょう。複雑な気持ちになる事と思います。
こうまでして消費を刺激しなければいけないのは、従来の日本は輸出に依存していたものが、アメリカや西欧諸国はともかく、アジアの冷え込みで、内需の拡大が景気維持に最優先になってきたからです。
そこで、過去の不況のことを思い起こしてください。インフレのときには何とか食えるのです。さらに、インフレにすれば貨幣価値が下がるのですから、多額の財政赤字を実質的に減らすことになります。
そこで意図的にインフレを誘導する政策減税が、一部の政治家の間で話題に載りました。しかし、国益を競って対じしている時代ならともかく、国際化協調の進む時代に自国だけの都合で通貨政策を操作することは許される筈はありませんし、不可能なことです。
つまり、後の時代に膨大な赤字国債を出して現代を乗り切ろうとする発想は、この時代が生み出した新型のインフレ効果です。
国際的にインフレが許容されなくなった為に、日本が世界恐慌の発現地にならないように、一国内で財政赤字を肥大化して国際経済に貢献させられているのが、いまの先進国の日本に対する圧力だというのは奇異に聞こえるでしょうか。
それでは一体現在の諸問題をどう理解すれば良いのでしょうか。
それは現在の不況の本源的原因が理解されていないからです。いや、分かっていても政治家にも、経済専門家にもは言えないタブーがあるからです。
従来、資本主義経済は消費需要よりも過剰な生産機能を持つことで発展してきました。その消費の最も高いシェアーを持っていたのは、戦争でした。したがって、戦争は局部的には落ち込んだとしても、やがて多大な景気効果を生みだします。
そして、そこには多くの改革意欲と情熱と、そして犠牲と破壊がありました。個人の喜怒哀楽や価値感や運命を飲み込んだ激流がありました。今で言うスクラップアンドビルドの超大型版です。
エレクトロニクス、新素材、バイオテクノロジーの進展に支えられた科学技術と経済,文化の国際的交流とあいまって、2極間の冷戦構造が終局し、大まかには大消費はは沈静化したのです。それにも拘わらず、発展途上国は人口の爆発的な膨張にせまられています。その代理戦争が今だに極地戦争として悲劇をもたらしています。
また、昨今問題になっているオゾン層の破壊から環境ホルモンに至るすべての環境問題はすべてと言っていいくらい人口問題です。
ただし誤解しないで下さい。私は決して戦争礼賛者ではありません。
太陽の惑星である地球に生存したすべての生物に当てはまる原理原則が、人間に適用できない筈はない言っているのです。人間は科学力を持っていて特別だと言う考えがありますが、それは明らかに人類の奢りです。太陽の摂理はどの生物にも平等です。
つまり、現在の社会は他の生物社会に学ばねばならないときにきていると思っています。
最近、アメリカのイエローストーン自然公園のなかに、1930年代にアラスカを除く合衆国全土で人によって絶滅された狼を、3年前からカナダで飼育して、3年間に3〜8頭からなる群れを8グループ放ちました。家畜を襲う狼を悪魔の使者として忌み嫌い、絶滅させてしまったことで、大きなものでは450キログラムにもなる大形のシカであるエルクが増えてしまいました。エルク、熊、バイソン、コヨウテ、地リス、ミサゴ、カワウソ等合わせて4万頭の動物のうち3万5千頭がエルクといった状態になり自然の秩序を乱れ、自然系全体の退廃に気付いたからです。もちろん、人間との共存と言う点で新たな問題は生まれますが、この問題は世界中至る所にある問題で別の観点で考えるべきことです。
「したがって、諸方面に亘る現在の混乱は大幅な発想の転換が必要だといいたいのです。それを卑近な教育問題から提起したかったのです。それが今回の著作の意図であることをご理解のうえぜひお読み下さい。」
さらに申し添えておかねばならない事は、私はこの著作を約1っか月で書きました。非行問題は過去の私の経験から、世間がすぐ冷えて無関心になると思ったからです。事実、黒磯の事件では事件当夜の緊急保護者会には、9割にあたる380人の父母が出席し、その1週間後に開かれた説明会では8割が出席したが、3月末の定期総会には60人で事件前の出席率と同じに2割以下になったことからも分かっていただけると思います。
言い訳になりますが、短期間であったために十分な推敲が出来なかったで、出版後「あとがき」を書きました。それをここに添えておきます。